みなさま、こんにちは。
バレエ安全指導者資格®︎事務局です。
今回は『美しさの落とし穴』というテーマで、お話をしていきたいと思います。
「美しい」と言うたびに
レッスンの中で、私たちは何度「美しい」という言葉を使っているでしょうか。
バレエの世界には、誰もが疑わない“美”が存在するように見えます。
整った姿勢、正確なポジション、均整のとれたライン。
ですが、それらはあくまで共有された「大枠」であって、絶対的な基準ではありません。
一人ひとりの身体は異なり、経験も感性も異なります。
つまり、「美しい」と感じるその瞬間は、いつも主観であり、個人の文脈に根ざしたものであるといえます。
しかし、私たちは、そのことを忘れがちです。
もし美について学術的・歴史的な理解を持たないまま語っているとすれば、それは刷り込まれた価値観の再生産にすぎません。
「先生がそう言っていた」
「先生からそう習った」
それらは貴重な経験である一方で、誰かの主観的な解釈に過ぎないかもしれません。
多くの教師が信じる“美”は、自身の教育背景や所属したバレエ団、出会った振付家たちとの経験に強く影響されています。
つまり教師の言う「正しさ」もまた、その人が生きてきた時間の中で形づくられた相対的な価値なのです。
単一の「美」ではなく、個々の「美」へ
私たちは「美」についても問い直すところからはじめています。
なぜなら、それは白か黒か、0か100か、良いか悪いか、といった理論にすり替わりがちだからです。
そもそもバレエという芸術において、私たちは何を目指しているのでしょうか。
統一された、均一な“美の製品”を作りたいのか。
そして、その型に合わない人を「バレエではない」と排除してしまうのか。
それとも、人間の身体という普遍的な構造を理解しながら、
個々の中から自然に立ち上がる“個の美”を見出すことを目指すのか。
個々の美に注目すると、単一的な美を押し付けるよりも、はるかに難しく、時間がかかります。
けれども、芸術とは本来そういうものではないでしょうか。
誰かが決めた正解を再現するのではなく、目の前の一人ひとりの身体の中に、普遍的でありつつも新しい「美」の可能性を見つけ出していく。
そこにこそ、創造の本質があるように思います。
美の危険性、魅了と支配のはざまで
「美しさ」は、人を惹きつける力を持っています。
その力は時に、理性や判断をも超えて、人々の心を動かし、行動を変えます。
それが、芸術としての「美」の偉大さであると同時に、もっとも危険な側面でもあります。
美は人を酔わせる
かつての歴史を振り返れば、「美」はしばしば大衆を誘導するための道具として利用された事実もあります。
その政治的主張や宣伝の中で、美は「秩序」「純粋」「理想的肉体」といった価値と結びつき、人々の感情に直接訴える形で支配の装置となりました。
芸術やデザイン、音楽、映画など、そのすべてが「美しさ」という名のベールに包まれながら、実は恐ろしく冷徹な政治的目的に奉仕していたのです。
“美”は人を酔わせます。
そして、その酔いの中で、私たちは「なぜそれを美しいと思うのか」を問うことを忘れてしまいます。
王権の象徴としてのバレエ
バレエは、芸術であると同時に、権力の象徴として利用されてきた歴史を持っています。
17世紀フランス、ルイ14世の時代。彼は「太陽王」として知られ、自ら舞台に立ち、神話上のアポロンの役を演じました。
たとえば、1653年の《バレ・ド・ラ・ニュイ》において、光と秩序の中心として自らを表現したことは、芸術を通じて王権の正当性を可視化する行為でした。
当時の舞踏は単なる娯楽ではなく、政治的スペクタクル(視覚的な支配)でした。
宮廷バレエは王の権威を示すための儀礼であり、貴族たちは王の前で踊ることによって、その秩序の一部であることを確認しました。
ルイ14世が1661年に創設した「王立舞踏アカデミー」は、舞踊を国家の管理下に置き、動作や形を体系化することで、美の基準を“制度”として確立する役割を果たしました。
均整の取れた所作、対称的なフォーメーション、整然とした列。
それらは単に技術的な完成度を目指したものではなく、秩序・統制・服従という政治的メッセージを内包しているものでもあったでしょう。
すなわち、当時のバレエの美は同時に、権力の言語でもあったといえます。
そうしたバレエの出自を考えると、バレエにはそもそもの権力構造や思想が組み込まれているのかもしれません。
だからこそ、慎重に取り扱わなければならないと思います。
そういったことは、ただバレエを習っているだけでは気づけない事実であるといえます。
知らず知らずのうちに、それらの力が働いているのだとしたら、それはとても怖いことだとも思います。
現代における「美の支配」
SNSで流れる「美しい身体」「理想のライン」「完璧なポジション」
それらは一見、個々の表現のように見えて、実際には“共有された幻想”として拡散していきます。
さらに現代では、テクノロジーの進化によって誰もが容易に画像や動画を加工できるようになり、修正された姿が“現実”として流通しています。
そしてその過剰に整えられた映像が、人々の認知を無意識のうちに歪めていくのです。
「本来の身体とはこうではないか」
「自分もこうでなければならない」
その幻想が強まるほどに、私たちは自らの身体への信頼を失い、そこに映し出される偽りの“美しさ”が心を縛る鎖へと変わっていきます。
やがてそれは、自己否定を生み、自由な表現を奪うことになります。
“美”が人を支え、励ますものでなくなり、均一な理想を押しつける「統制の装置」と化したとき、そこには本来の美しさや芸術はあるのでしょうか?
(もちろん統制=美しさ、であるならば成立しているとも言えるでしょう)
美に抗うということ
だからこそ、指導者である私たちは「美しい」という言葉を使うとき、その裏側にある力を意識しなければならないと思います。
美は感動を生み出す力であると同時に、人を支配する力でもある。
だからこそ、美を疑うことは、自由を、そして健康を守ることにつながると言えるのではないでしょうか。
バレエの本質は、型の中に宿る自由です。
形を模倣することではなく、その形の意味を理解し、再解釈すること。
「なぜこの形が生まれたのか」「何を象徴しているのか」を学び直すことによって、私たちは無意識に“支配する、される美”から、“解放する美”へと歩みを進めることができます。
そもそも西洋の美を、私たちはどこまで理解しているのでしょうか?
憧れでもあり、理想でもあるその美について、どこまで謙虚であるか。
その姿勢も問われるのではないかと思います。
他者を支配しない美へ
美しさは、本来、誰かを支配するためのものではなく、
人と人、人と自然が調和し、生きることそのものを尊ぶためのものだと思います。
そこに、上下や優劣はありません。
安全を守り、他者を尊重しながら生まれる表現。
その中にこそ、時代を超えて失われない美があると私たちは信じています。
「その美は、誰のためのものか?」
「その美は、人を自由にしているか?」
美しさの魅力や美しさが持つ力を信じながらも、その危うさを知っていること。
それこそが、これからの芸術教育とバレエ指導に求められる成熟のかたちではないでしょうか。
安全と芸術を両立させるということ
私たちは、バレエが持つ本質的な構造を理解し、安全と美しさを両立させる道を追求しています。
安全を無視して得られる形は、一見美しく見えても、結局は人を傷つけてしまうもの、人生という長い時間を耐えうるものではありません。
一時の美しさではなく、生涯を通して美しくあるために、身体を守りながら美しさを表現する技術。
それは、単なる妥協ではなく、人間という存在に誠実であるという意味での“最先端の美意識”だと思います。
身体構造や可動域を理解し、関節や筋肉に無理のない動きを設計すること。
それは「諦め」ではなく、「進化」であり、芸術がもつ包容力の表れでもあると思います。
そして、過去から継承された芸術の精神を、現代にふさわしい形で受け継ぐという挑戦だともいえます。
継承と革新のあいだで
今にもつながる長い歴史を紐解けば、バレエは伝統芸術であると同時に、常に変化し続ける生命体でもあります。
過去の美を否定するのではなく、その歴史の上に新しい価値を積み重ねていく。
そこに、教育としてのバレエ、そして文化としての成熟があるのではないでしょうか?
そもそも日本にはなかったこのバレエという芸術を通して、私たちは、個々の美を尊重し、身体の理解に基づいて安全を守りながら、
「過去から継承された美」を「今を生きる人間にとっての最先端の価値」へと変えていきたい。
それは単なる理論でも理想でもありません。
それこそが、これからの時代におけるバレエの使命であり、
私たちが育てていくべき「新しい美」のかたちです。
バレエ安全指導者資格®︎ 事務局