みなさま、こんにちは。
バレエ安全指導者資格®︎事務局です。
今回は、本日開催いたしました樋笠勝士先生による『哲学」の講義の感想を書いていきたいと思います。
樋笠勝士先生をお招きし、「教えるとは何か?」そして「美学」をテーマにした特別な哲学講義を開催しました。バレエの世界に携わる私たちにとって、日々の指導や活動の根幹を問い直す、非常に貴重な時間となりました。
バレエ安全指導者資格®︎は、バレエの指導者を育成する資格ですが、そもそも教えるという行為について定義すること、その意味を理解することを大切にしています。これまでもワガノワメソッドやチェケッティメソッド、そしてフランスのバレエ資格からもバレエを指導することについて学ぶ講義はありましたが、より根本的に、そのあり方について、樋笠先生に哲学の視点から講義をしていただきました。
日本のバレエ指導において、先生と生徒、師匠と弟子という関係性は非常に身近で、古くから良しとされてきた慣習があります。ゆえに、その関係を客観的に見つめ直す機会や、良し悪しを判断する術はこれまでほとんどありませんでした。今回の講義では、その関係性を非常に明快に解説し、双方にとって望ましい在り方を示すとともに、指導者がその危うさを理解しつつ、生徒とどのように歩んでいくべきかを、哲学的な視点から紐解いてくださいました。
示された指導者像は、まさに「どのような指導者であるべきか」という問いへの答えであり、それは同時にバレエ安全指導者資格®︎が求める指導者像そのものでもありました。その理想像を明確に言語化し、体系的に整理していただいたことで、講義は非常に有意義な学びの時間となりました。
そして、バレエは美しいものであると、業界の人のみならず、広く一般に語られるダンスです。
この「美しい」という言葉を私たちは普段何気なく使いますが、この講義を通じて、その言葉に含まれる要素がいかに多様であるかを改めて認識させられました。ある人にとっての「美しい」は、別の人のそれとは全く異なる場合があります。にもかかわらず、私たちは同じ「美しい」という言葉で語り合ってしまう。この曖昧なコミュニケーションが、ときに誤解や対立を生み出してしまう現実を、樋笠先生がその哲学的な歴史から丁寧に紐解いてくださいました。
西洋的な美しさに含まれるもの、そして東洋的な美しさに含まれるもの、それぞれの要素の違いがまた、各国でのバレエのオリジナリティを与えるものでもありますが、それがポジティブに作用する場合もあれば、ネガティブに作用する面もあって、特に日本におけるバレエにおいては、ネガティブな面を持ち合わせていると理解することが出来ました。
それは”自己犠牲”という言葉にも表されるような価値観。
でもそれを違った視点から見るならば、それは”自傷行為”とも呼べるものではないでしょうか。
そういった価値観の中で、育まれてしまうその精神性こそが、日本におけるバレエの危うさの原因だと思いますし、それは決して西洋が求める美、または芸術に求める営みとは相容れないものなのではないかとも思います。
日本では、バレエの指導現場や作品評価において、「美しい」や「正しい」といった言葉が頻繁に用いられますが、その定義は必ずしも明確ではありません。この定義の曖昧さこそが、多くの問題の根源ではないかと強く感じました。それは技術的なことなのか、それとも道徳的なことなのか、同じ美しいであっても、それを評価する際に見ている点が、人によって異なることで、指導者と生徒の間、あるいは指導者同士の間で齟齬が生じ、対立へと発展してしまう。それは、私たちが共通の言語を持たずに話しているような状態だからだと思います。
この状況を改善するためには、お互いが「なぜそのように感じるのか」「何を美しいと捉えているのか」を言葉にして、対話するコミュニケーションが不可欠です。しかし、その対話の前提として、お互いの考えを理解し、議論を深めるための共通の教養が土台として必要になります。哲学は、まさにその教養の根幹、核となるものです。物事を多角的に捉える視点、論理的に思考する力、そして自身の考えを整理し、他者に伝えるための言葉の選び方。これらを学ぶことで、私たちはより深く、本質的な対話が可能になるでしょう。
私たちの目指す資格の大きなテーマは、「バレエとは何か?」という問いから始まります。それは、「バレエから何を学ぶのか?」、また「バレエで何を教えるのか?」へとつながり、最終的には「バレエを通じてどのような人を育てるか?」という、より大きな目標へと行き着きます。この一連の問いに真摯に向き合うために、私たちはバレエの技術や知識だけでなく、その土台となる哲学的な思考や教養を身につける必要があると感じ、今回の講義の開催へと至りました。
樋笠先生の講義は、この道筋を照らす羅針盤のようなものです。優れた指導者とは、単に技術を教えるだけでなく、生徒の内面にある可能性を引き出し、自立した人間へと導く存在です。そのためには、生徒一人ひとりが持つ「美」の定義を尊重し、対話を促すことができる人間性が求められます。この講義で得た学びは、そのような指導者像を具体的に描くための大きなヒントとなりました。
今後、樋笠先生の哲学講義は、私たちのベーシック講座やプロフェッショナル講座にも正式に組み込まれます。バレエの技術や身体の仕組みだけでなく、その奥にある人間性や教育について深く考えたい方にとって、この講義はまさに必修と言える内容です。
私たちは、単にバレエを教える技術を伝えるだけでなく、生徒の人生に寄り添い、共に成長できるような、「真に素晴らしい指導者」を育成することを目指しています。そのための貴重な学びの機会を、ぜひ一緒に体験しませんか?今回の講義が、私たちが目指す教育のあり方を再確認し、さらなる高みへと進むための、大きな一歩となったことを確信しています。
樋笠先生、本当に素晴らしいお時間をありがとうございました!
バレエ安全指導者資格®︎ 事務局

樋笠勝士先生
神田外語大学教授、上智大学教授、岡山県立大学教授を経て、現在 慶応大学言語文化研究所研究員、岡山県立大学特命研究員、朝日カルチャーセンター講師、日本大学大学院講師。
専門は美学芸術学及び哲学。
著書は『フィクションの哲学』月曜社(2024年)等。
オンライン読書会も実施中(Twitter/X「美学哲学コロキウム」)
1)今回の資格への思い
幼少期からバレエに囲まれた生活をおくっていましたが、理論研究の方へと進む一方で、バレエ制作や裏方には結構関わり、今は亡き小川亜矢子先生や関直人先生とは親しくさせていただきました。理論研究では哲学や美学の方へと進めていきましたが、他方で趣味としてバレエの舞台鑑賞を絶やさず、現代舞踊をも視野に入れてローザスやピナ・バウシュなどに強い関心をもち、その結果身体論や舞踊美学も研究しています。現在は、身体論や空間運動論などと交叉させながら空間感性論をテーマとする「光の美学」研究をしています。そのような経緯の下で、偶然「バレエ安全指導者資格」のことを知ることになりました。
日本では徒弟制度的な私的バレエ教育が盛んですが、因襲的な関係における教育は確かに濃密であり一定の効果はあるものの、公平性や客観性、学問性及び教養の点で問題があります。時代もバレエの公的教育態勢を求めていると思います。その教育内容も単なる訓練や修養ではなく、解剖学・生理学・医学に基づく知識、訓練の合理性や安全性の知識、舞踊史・舞踊思想、著作権その他の法制度の知識など、指導者は多角的で綜合的な内容を必要としていると思います。その一助となれば幸いです。
2)担当する講座の内容について
バレエ教育の視点の下で、哲学及び美学を講義します。哲学では、どのようなことでも原理的な問い(「Xとは何か What is X ?」)を発します。人間とは何か、なぜ皆幸福を求めるのか、人はなぜ怒るのか、など本質的な問いを主題とします。バレエ教育でも、「身体とは何か」「身体の運動にはどのような意味があるのか」「運動を教えるとはどういうことか」など多くの原理的な問いをたてられます。もちろん哲学史の知識は必要とはしません。可能な限り分かりやすく論じていきます。このような哲学的活動の一つに美学があります。美学の主題は「美」と「芸術」と「感性」です。バレエでは「美」が語られますが、しかし、何がどのような理由で美しいのでしょうか。そもそも「美」とは何なのでしょうか?「美」は「善」と何が異なるのでしょうか。他方、バレエは「芸術」とみなされていますが、そもそも「芸術」とは何なのでしょうか? 我々は芸術を、芸術ではないものからどのように区別するのでしょうか? さらにバレエにおいては様々に「感性・センス」が問われます。ダンサー自体の踊りのセンスもありますが、舞台美術や音楽のセンス、そして鑑賞側のセンス(これは批評に繋がります)もあります。このような西洋哲学史の中に豊かに展開されている思索を講義していきます。
3)参加される皆さんへ
バレエは身体運動の一つです。そこで問いが出てきます。「人はなぜ踊るのか」「踊りとは何か」。この「なぜ」や「~とは何か」は原理的な問いですので哲学の問いであると言えます。他方で、「踊り」は、「歩く」という身体運動と、何が同じで何が異なっているのかを問う必要も出てくるでしょう。さらには、原始人も江戸時代の町民も「歩き」「踊り」ますが、「踊り」に属している「バレエ」は西洋近代に始まる文化史的意味をもっています。さて、このような「問い」をめぐる思索の過程は、バレエのレッスンに明け暮れている人々にとってはおそらく非日常的なものでしょうし、そもそもこれらの問いは生きるために必要不可欠なものではありません。むしろ避けた方が上手く生きていけるでしょう。しかし、日々の生活の中で「何のために生きるのか」の問いは、哲学で公に問いを出さない限り、多くは誰もが自己の内面で密かに問うものではないでしょうか。それと同様に、身体運動、踊り、バレエへの問いも非日常的な場でなければ一人では考えようとはしないものです。問わなければ一生考えることはないでしょうし、考えることの意味も感じないまま生を終えてしまうでしょう。しかし敢えて問うこともできます。これによって人は自らの考え方を一層豊かにさせ確実に深めてゆくことができ、それが「教える」という知的な活動に直接的な影響を与えます。そして、問うことこそ哲学や美学の学びによって得られる知的な快楽となるのです。