みなさま、こんにちは。
バレエ安全指導者資格®︎事務局です。
今回のコラムでは、『自己犠牲と美、そして称賛の構造 ─ 痛みを美化しないために』というテーマで、前回に続き、バレエ界にある「常識」について、もう一度問いを立てたいと思います。
バレエの世界には、長く根付いてきた「自己犠牲の美」があります。
それは、観る者の心を打つほど純粋で、崇高に見えることさえあります。
しかし、そこに潜む“構造的な危うさ”に、指導者の方をはじめ、皆さんはお気づきでしょうか?
それは、芸術はいつのまにか「苦しみを美化する装置」へと変える力を持っているものでもあります。
「痛みを超える姿」に宿る美
バレエの舞台で、観客を最も感動させる瞬間のひとつ。
それは、限界を超えてなお踊る姿かもしれません。
汗と涙、そして、舞台袖での抱擁。
そこに「魂の美」を感じる。
それは人間の共感として自然な反応でしょう。
しかし、問題はその“美しさ”をどう受け止めるかです。
痛みを抱えながら踊る姿が美しく見えるのは、その背景に「努力」「使命」「愛」が透けて見えるからです。
人は、誰かが“自分を超えようとする瞬間”に心を動かされます。
そこに芸術としてのカタルシス(浄化作用)があります。
でもその瞬間が、本人の自由な選択ではなく、
「出なければならない」「期待に応えなければ」という圧力の中で生まれたものだったとしたら、
それはもはや芸術ではなく、制度が生んだ犠牲です。
称賛の罠
観客は感動し、仲間は拍手し、先生は涙を流す。
「最後まで諦めなかった」「立派だった」
それは称賛です。
けれど、その称賛は時に次の自己犠牲を促す力になってしまうのです。
なぜなら、その瞬間、本人の心の中にこうした声が刻まれるからです。
「痛くてもやれば褒められる」
「限界を超えることが価値になる」
称賛は、努力の証として正しく使えば人を育てます。
しかし、苦しみを条件に与えられる称賛は、人を縛ります。
それは、「健康な努力」と「危険な自己犠牲」を区別できなくしてしまうのです。
「美」と「犠牲」は、なぜ結びつきやすいのか
それは、バレエという芸術の歴史的構造に根があるのかもしれません。
ルイ14世の宮廷文化において、バレエは秩序と統制の象徴でした。
完全な姿勢、均整の取れた列、感情を抑えた優雅さ。
そこでは「個の感情」よりも「全体の美」が優先されてきたでしょう。
こうした価値観は、今も形を変えて残っているのかもしれません。
群舞の中で「誰かが欠けても成り立たない」という意識。
発表会で「全員揃ってこそ美しい」という信念。
それらは教育的に正しく見えて、
実は「痛くても踊らなければ」という暗黙の同調圧力を生みます。
美の名のもとに、犠牲が生まれてしまう。
その構造は、芸術と社会の中で繰り返されてきた歴史的現象であるかもしれません。
教育者として問われること
誰も好き好んで怪我をする人はいません。
稽古場以外の日常の生活の中にも、不意に怪我することは生きていれば誰しもに起こることです。
すべてがすべて、お教室や先生、またご自身のせいではないからこそ、この問題はとてもセンシティブで難しいものだと思います。
だとしても、バレエ教師が本当に育てたいのは、「痛みに耐える子」でしょうか?
それとも、「自分の身体を大切にできる子」でしょうか?
この問いに、私たちは明確に答える必要があります。
教育とは、「正しい判断をする力」を育てる営みです。
だとするならば、先生が「今は出ないほうがいい」と伝えることは、“夢を奪う行為”ではなく、“未来を守る教育”だといえるでしょう。
そして、もし生徒がステージを降りたとしても、その決断を称賛できる文化をつくることが大切です。
「よく我慢したね」ではなく、
「勇気を出して休む選択をして偉かったね」と言える空気を、私たちは育てていかなければなりません。
「あの時出ておけばよかった」
「あの時出なくてよかった」
どちらの未来もあるでしょう。
だからこそ、「あの時出ておけばよかった」と思う未来は、きっと指導者の心の中にも大きな傷が残ることでもあるかもしれません。
そして、舞台に出られないという悔しさや悲しみは、子どもたちの心に深く残るものです。
だからこそ、それが“敗北”ではなく“経験”であることを伝えること。
勝ち負けや優劣ではなく、今回はたまたまそうだっただけで、また次の機会がやってくるという希望を示すこと。
それが、子どもたちにとっての「教育としてのバレエ」の本当の意味であり、私たち大人が守るべき“美しさ”のかたちではないでしょうか。
「痛みを美化しない」ことは、芸術を貶めることではない
誤解してはいけないのは、
「犠牲を否定する」ことは「努力を否定する」ことではない、ということです。
努力の美しさは、人の心を動かします。
けれど、それは「痛みを伴うから美しい」のではなく、自分の意思で前に進む姿勢そのものが美しいのです。
「痛みに耐えること」を美と混同してしまうと、芸術は人を自由にするどころか、人を拘束する道具に変わってしまいます。
本当の美しさとは
本当の美は、健康と自由の上にしか成り立ちません。
それは「苦しみを隠す美」ではなく、「自分を大切にしながら生きる姿」に宿るものです。
だからこそ、指導者が変われば、文化も変わります。
観客が変われば、称賛も変わります。
私たちが“美”を見つめ直すことで、芸術は「犠牲の場」から「人を幸せにする場」へと再生できるのです。
自己犠牲は、たしかに美しく見えます。
でも、それが誰かの痛みの上に成り立っているとき、その美しさは、どこかで誰かを傷つけてしまう。
だからこそ、教育者である私たちは、「美」と「称賛」の在り方をもう一度問い直さなければなりません。
芸術の名のもとに、誰も傷つかない世界をつくること。
それこそが、次の時代の“本当の美”だと、私たちは考えています。
バレエ安全指導者資格®︎ 事務局